その猫は、ピンと伸ばした尻尾を高々と掲げながら、私の足元を過ぎていった。
伸ばした、と言っても、その猫の尾は先が妙に曲がっていた。生まれつきなのか事故にあったのかは判らなかったが、しかし、他とは違うその尻尾と、まるでその尾を誇るような歩みは、確かに私の意識を引いた。
私は自動販売機の前で、裸の小銭と小銭入れを片手に、ただただ猫を見詰めていた。コーヒーを買いに来たのだったが、そんな用事がどうでも良くなった。雄か雌かも判らない猫だ。別に、そこに居たって不思議では無い。だのに、どうしても、気になったのだ。
私は迷う事なく、開けたばかりだったがま口の金具を閉じた。金属が固く噛み合う音を意識の端っこに引っ掛けて、小銭を仕舞う事さえせずに、姉のサンダルを引き摺りながら歩き出す。勿論、猫を追っての事だった。
一歩を踏み出す間に、私は私の中にルールを作った。猫が逃げれば、追うのをやめる事。すぐそこの細い裏路地に入り込まれたら、引き返す事。私には入れない場所に向かうようなら、諦める事。そうして、当初の予定通りに、コーヒーを買って帰る事。それはルールというよりも、予想だった。
しかし猫は、私が予想した一切の行動を、取らなかった。
人の歩く道を人のように歩き出す。一度こちらを向いたので、私が追っている事も承知しているようだったが、だからといってどうする事もしなかった。ほほう、なかなか、度胸のある猫らしい。妙に楽しくなってきた。ルールは健在である。私に引き返す理由は無かった。
追って歩いているうちに、私はふと、何とも言えない懐古を抱いた。その猫の後ろ姿を知っているような気になったのだ。
原因はすぐに判った。そっくりな猫を知っていたのだ。尾の先の捩れと、年月が、二匹の猫が全く別の生き物である事を物語っていた。
というのも、そっくりな猫というのは、私が小学生の時に、近所で飼われていた猫だった。名前を、きんぎょ、と言う。
猫なのに、きんぎょ。
そう思う人は少なくないはずなので、猫のきんぎょが、何故そう命名されたのかのいきさつを書いておこうと思う。
きんぎょは捨て猫だった。毛の色もわからないほど薄汚れていた猫を、近所に住んでいた夫婦の、奥さんが、拾った。
奥さんは旦那さんに、猫を飼いたい、と、きんぎょを見せた。当然というか何というか、旦那さんは、反対した。
猫や犬なんて、簡単に飼うなんて言うもんじゃない。
じゃあ、何なら良いっていうの。夏祭りで掬った金魚は、良いって言ったのに。
そりゃお前、金魚なら別に良いだろう。捨てるにも川まで行かなきゃならない。
そう、金魚なら良いの。
ああ。判ったら、諦めて戻して来い。
じゃあ、この猫の名前は、今日からきんぎょよ。
旦那さんは、猫を、というよりも、奥さんの返しが気に入ったらしかった。お前、そりゃ屁理屈だ。屁理屈だが面白い。きんぎょはそうして、その家の一員になったそうだ。
しかしきんぎょは、どこまでも捨て猫らしく、どこまでも自由だった。いつだって、外にいた。飼い猫だと知っている人は、少なかった。ここらへんに住み着いている猫、という方がしっくりくる。人を引っ掻く事をしない猫だったので、誰も何も言わなかった。
私たちは、その奥さんを、『きんぎょちゃんのおばちゃん』と呼んでいた。私の住む住宅街は、一軒屋がズラリと並んでいるビーバーハウスと呼ばれるもので、ペットを飼っている家は決して珍しくなかった。私の家の向かいには、柴犬のペック、そのお隣の家に、同じく柴犬のガツ、ちよというゴールデンレトリバーは、隣の家で飼われていた大きな犬で、散歩させてもらった事がある。
きんぎょちゃんのおばちゃんが、きんぎょちゃんのおばちゃんであったのと同じように、子供たちにとって、飼い主はそれぞれペットの名前で呼ばれていた。ペックちゃんのおばちゃん、ちよちゃんのおばちゃん、といった具合だった。唯一、ガツことガッちゃんの飼い主だけは、ガッちゃんのおばちゃん、ではなく、吉野さんだった。何故だったかは、覚えてない。
私ももう良い大人である。成人して少し経った。今や、ペックちゃんのおばちゃんは、森さんになった。ちよちゃんのおばちゃんは、引っ越していってしまったので、名前を知らず終いである。甥や姪たちは、きんぎょちゃんのおばちゃんが、そう呼ばれていた事を、知らない。それが年月というものだった。最後に猫のきんぎょを見たのは、いつだったろう。考えようとして、やめた。猫が立ち止まったからだ。
正直言うと、私はきんぎょの顔や容姿を、しっかりと覚えているわけではなかった。人の顔ですら、覚えるのが苦手な私である。猫の区別など付けようもない。けれど、足元でお行儀よく座っている猫は、きんぎょに、似ていた。似ていたのだ。
ごうごう音を立てて車が通り過ぎていく。私は一歩、道の脇に退いたが、猫は微動だにしなかった。私が動いた気配に反応して、チラリと、私を見上げたのみである。あんまりにも平然としているので、撫でても良いのかと手を伸ばしてみたが、するりと避けられてしまった。拍子に手の甲に触れた尻尾の先は、固いような、柔らかいような、言い様の無い感触だった。
時刻は夕方に差しかかっていた。傾き始めた陽が、赤く伸びてきて、黒い影を地面に張り付ける。猫と並んで、それを見下ろす。
車は相変わらず、ごうごうと通り過ぎていく。スーツを着た中年男性が、不思議なものでも見るように、私と猫を眺めていく。毛繕う猫の隣で、私は握ったままの小銭を、擦り合わせた。
唐突に、名前を呼ばれた。
あ、っと思った時には遅かった。幼い声と足音から逃げるように、猫は狭い建物の隙間に身を躍らせてしまった。
咄嗟に隙間を覗き込んだが、もう既に、猫の姿はどこにも無かった。見るからにじめっとした、陽の光の届かない薄闇が、すらりと伸びている。猫はとっくに、向こう側に駆け抜けてしまったようだった。
こんな所で何しているの、と、私の名を連呼しながら駆け寄ってきたのは甥っ子だった。近くの公園で友達と遊んできた帰りらしく、黒い服の端々に、砂場の名残が伺えた。反対に、私はぽつんと路地にいた。猫がいた名残は、欠片も残ってはいなかった。
ちょっと、コーヒーをね、買いに。
人肌にぬくもった小銭を甥に見せながら、私はそれだけ言うと、来た道を引き返した。ふーん、と、声がして、足音が隣に並ぶ。当然ながら、帰る方向は同じなので、そのまま、甥と帰路に着いた。
私は、甥の黒い服を眺めながら、猫の黒い毛を思い出していた。路地に飛び込む寸前に、こちらを振り返った猫は、目を細めていた。その所為だろうか。その顔は、笑っているようにも見えたし、暇人め、と呆れているようにも見えた。面白い猫だった。もう少し、同じ景色を共有していたかった気がする。
捨て猫の黒い毛は、捨て猫らしく汚れていた。甥の服と同じだなと、考えた途端、笑えてきた。帰ったら、姉はどんな顔をするだろうか。とりあえず、ひどく機嫌を悪くするに違いない。ただでさえ、苛立っているはずである。
私が買いに出たコーヒーは、姉が飲みたがったものだからだ。
姉ちゃんのサンダル履いってって良いから、コーヒー買ってきて。そう言われて、私は家を出た。コーヒー一本のおつかいにしては、随分と時間が経っている。自販機はそんなに遠くない。姉自ら買いに出た方が、はるかに早かったはずだ。苛立たないはずがない。
怒るやろなあ、と、呟いたら、甥っ子は自らの服の端を引っ張った。汚してしまった自覚があるらしい。だって砂場で、一組の子が、と話し出したので、私は曖昧に笑っておいた。服の事じゃなくってね、とは、言わないでおいた。
甥は、帰ったら、全く同じ言い訳を姉にするのだろう。私はきっと、その隣で、だってきんぎょがね、と、甥と共に言い訳を口にするのだ。
きんぎょの名前を、姉は覚えているだろうか。覚えていたなら、どう反応して見せてくれるだろうか。
何で笑っているのと聞かれたので、懐かしいからだよと、言っておいた。
訳がわからないとばかりに首を傾げる甥の隣で、私はぬるく温まった小銭を自動販売機に押し込んだ。
道路の向こうに、買い物に向かうきんぎょちゃんのおばちゃんの背中が見えていた。
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